
Annunciation
一輪の百合が、一人の人間の運命を変えた瞬間
天使は、ごく静かに近づいてきます。
手には白い百合を持ちながら。
そしてマリアはいま、
自分の人生がまったく変わってしまうという知らせを聞かされようとしています。
この絵の主題である「受胎告知」とは、大天使ガブリエルが聖母マリアにイエスの誕生を告げる場面を描いたものです。
文字どおり「子を身ごもることになった」という知らせを伝える場面です。
花はすべて意味を持っています
絵の中をよく見ると、小さな花々があちこちに描かれています。
上方の幼い天使たちが手にしている黄色い花はジャスミンです。
ジャスミンは5月に咲く花で、当時5月は聖母マリアを象徴する月とされていました。
そしてガブリエルが持つ百合。
この花は聖母の純潔を意味します。
「聖霊によって身ごもった」という事実を強調する象徴と言えるでしょう。
また、床に落ちた赤いカーネーションも目に入ります。
たいへん美しい花ですが、
実はイエスがやがて流すことになる血と犠牲を暗示しています。
つまりこの絵は、誕生の瞬間を描くだけにとどまらず、
すでにイエスの死をも予告しているのです。
敬虔さが求められた時代の絵画
この作品は、当時カトリック教会が芸術にいかに厳格な基準を設けていたかをよく物語っています。
宗教改革ののち、カトリック教会がプロテスタントからの批判を強く意識していた時代でした。
そのため絵画も、過度に華美であったり感情的であったりしてはならなかったのです。
代わりに、誰もが容易に理解でき、
敬虔であり、メッセージが明確でなければなりませんでした。
それゆえ画面も非常に整然としています。
構成は厳格で、感情表現も抑制されています。
神の物語を、現実へと引き寄せる
興味深いのは、画家が絵の中に現実の品々をともに描き込んでいる点です。
下方の籠、
そしてマリアの背後にある椅子のような小道具は、当時の実際の家の中でも見られるものでした。
おかげで人々はこの場面を、単なる聖書の物語としてではなく、
「自分たちのそばでも起こりうる瞬間」のように感じることができました。
もしかすると当時の教会が求めていたのも、まさにそれだったのかもしれません。
遠くにある神の物語ではなく、
人々の暮らしの近くに寄り添う信仰のことを。

